北条は勢いに乗っている。旧武田領を一気に呑みこもうとしていた。上杉についた昌幸は、その裏で、信繁に密命を与えていた。

-第8回「調略」冒頭より-

天正10年(1582年)7月12日、北条氏直は碓氷峠を越えて信濃に侵攻する。翌13日、今回のキーパーソンである春日信達が上杉景勝によって処刑され、同月19日、氏直は上杉との決戦を避けて徳川家康が侵攻中の甲斐へと向かう。

春日信達について

今回は春日信達(前川泰之)がキーパーソンとなる。この信達は春日虎綱(高坂弾正の名で有名)の次男。虎綱は武田四天王の一人で、井上靖の『風林火山』でも山本勘助の後継者として大活躍する(2007年の大河ドラマでは田中幸太朗が演じ、その活躍は原作より限定された)。

天正6年(1578年)5月、虎綱は52歳で世を去る。長兄の昌澄が先の長篠の戦いで戦死していたことにより、次男の信達が春日家と海津城代を継ぐことになった。春日(高坂)と真田といえば、北信濃における武田の両輪であったが、春日は勝頼の代に若干疎まれその地位を低下させている。

そういう背景もあってか、武田滅亡後は織田家にすんなり従属し、北信濃四郡の領主となった森長可(谷田歩)の与力となる。そして本能寺の変後、第6回「逃走」においてこの長可はほうほうの体で信濃から脱出していたが、その時に散々妨害をしたのが信達であった。

この時、信達の裏切りに激怒した長可は、人質として預かっていた信達の子・庄助を途中の松本で殺害している。第6回で信達と長可のその辺の関係を少しでも描いていれば、今回もっと春日信達という人物を身近に感じることができたはずだが、時間の都合もあったのだろう。

春日信達調略

ドラマでは、北条氏直(細田善彦)が信濃に入ってから昌幸(草刈正雄)も北条に帰順したことになっていたが、実際は氏直が碓氷峠を越える前の7月9日に北条への帰属は決まっていたようだ。この時、昌幸は今回のサブタイトルの通り、海津城代であった信達に「調略」を仕掛ける。

この調略に信繁(堺雅人)が絡んでいた可能性はほぼなく、信繁は第7回「奪回」から引き続き木曽義昌のもとで人質生活を送っていたとされる。これは本作の時代考証を担当している丸島和洋によって明らかにされたことであるので、その担当者も容認のフィクションということになるのだろう。

ともあれ、この春日信達調略は一応成功するが、これは同時に企てられていた信尹(栗原英雄)の牧之島城乗っ取り計画とともに事前に上杉景勝(遠藤憲一)の知るところとなり、北条が信濃に侵攻中の7月13日、信達は景勝によって一族もろとも処刑されてしまう。

信濃川中島を巡って

余談となるが、これより18年後の慶長5年(1600年)3月、森可成の六男、つまり長可の弟にあたる森忠政がこの信濃・海津城に13万石で入ることになる。その時、海津城は兄を妨害した春日一族への報復を待ち望んでいたという意味から「待城」と改名され、この地にいた春日一族は皆残らず探し出されて磔の刑に処せられたという。

百姓の身分より武田四天王の地位を確立するまで大出世した春日一族は、この地で実に悲惨な末路を辿ることになったが、これより22年後の元和8年(1622年)10月、不思議な巡り合わせで真田信之(大泉洋)が13万石でこの地に入り、信濃松代藩真田家の拠点として250年に渡って武田の精神を受け継ぎ明治維新を迎えることになる(待城も「松城」を経て「松代城」と改名)。

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筆者

M
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