昌幸は大勝負に出る。滝川一益が、北条討伐に向かう隙に沼田城、岩櫃城の奪還を狙う。だが、一益のもとには、人質としておとりがいた。

-第7回「奪回」冒頭より-

天正10年(1582年)6月19日、滝川一益は神流川の戦いで北条氏直の大軍に敗れた。一益はこの後、木曽谷通過でも手間取り、織田家の跡目を決める清州会議にも間に合うことができず、織田家中における地位を失墜させることになる。

北条が上野に侵攻した背景

甲州征伐(武田征伐)当時、徳川は当然の事ながら、北条も織田と同盟関係にあった。当初は織田、徳川、北条、三者示し合わせての同時侵攻となる予定であったが、織田の先発隊である織田信忠(玉置玲央)と滝川一益(段田安則)の軍が怒涛の侵攻を見せ、武田はあっけなく滅んでしまう。

このことによって、徳川はなんとか駿河一国を得るものの、北条は同じ同盟国でありながら新たな領土を得ることができなかった。そのうえ、上野には関東守護と称して滝川一益が大軍で入っており、北条にとってはまさに喉元に匕首を突き付けられているような思いであったろう。

捲土重来を期す。そんな中での本能寺の変であった。武田滅亡から3ヶ月、その時は予想以上に早く来たはずである。北条はその変を知っても、第6回「逃走」にあったように、はじめは滝川軍と抗戦の構えを見せなかったが、密かに軍勢を整えて上野侵攻を伺う。

神流川の戦い

天正10年(1582年)6月16日、北条氏直(細田善彦)は5万の大軍をもって上野方面に進軍し、同月18日、滝川一益率いる2万が神流川の対岸でこれを迎え撃つ。初戦となるこの戦いではなんとか北条軍を撃退したものの、翌19日の合戦で滝川軍は惨敗を喫する。

この戦い、一益は北条がこのような大軍で押し寄せてくるとは思わなかったのだろうか。いずれにせよ、長期戦となって総力戦の様相を呈してくると滝川軍にまず勝ち目はない。北条が関八州という100年の地盤を持つ大国であった一方、滝川は上野に腰を下ろして3ヶ月も経たない新興勢力に過ぎなかった。

そこで、19日の合戦で惨敗した一益は潔く上野を捨てて信濃方面に走る。昌幸(草刈正雄)もこの合戦に滝川方として加わっていたという記録(『関八州古戦録』や『附神流川合戦記』など)もあるが、ドラマでは信濃・真田の郷でこの敗戦の報を知り、自ら兵を率いて沼田城を奪還しに行くことになる。

小諸城から木曽福島城へ

翌20日、一益は上野の諸将を箕輪城に集めて酒宴を開き、その日の深夜に箕輪城を発ち、翌日には碓氷峠を越えて甥の道家正栄が守る信濃・小諸城に入る。この時、昌幸は一益を助け、とめと弁丸(信繁)を人質として預けたようだが、ドラマではとめは19日以前に人質となっており、信繁(堺雅人)はとめを助けに行って自分まで人質になってしまうという展開に。

21日に小諸城に入ってから27日にここを発つまでの間、一益は木曽義昌(石井愃一)と木曽谷通過を巡って交渉する。そして28日に義昌の居城・木曽福島城でとめら人質を引き渡して美濃に入り、数日中に27日に行われた清州会議で織田家の跡目と決まった三法師に拝礼したようだが、反秀吉派の一益がこの清州会議に間に合っていれば……と考えざるをえない。

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筆者

M
M
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得意分野:日本文学
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