石田三成・男(享年41)
年 | 月 | 経歴 |
1560 | ? | 近江国坂田郡石田村で生まれる。 |
1574 | ? | 長浜城主・羽柴秀吉に小姓として仕える(注1)。 |
1585 | 7 | 従五位下治部少輔に任ぜられる。 |
1595 | ? | 近江国佐和山に19万4000石で入封し佐和山城主となる。 |
1600 | 9 | 関ヶ原で徳川家康率いる東軍に敗れる。 |
1600 | 10 | 六条河原で斬首される。 |
注1:近年の研究では天正5年(1577年)の説も有力。
長所・短所
裏表がない。これは長所でもあり短所でもある。裏表がないことである人たち(秀吉や大谷吉継など)からは絶大な信頼を得、裏表がないことである人たち(文禄の役の査定における加藤清正など)からは重大な誤解を招いた。また滅私奉公の精神が一際強く、蓄えは表向きのことに惜しみなく使い、自らは質素な生活を心がけた。
趣味・特技
趣味は領内視察。城主となってからも自ら領内を視て回り、百姓の視点に立った人情味のある条例を制定した(「十三ヶ条掟・九ヶ条掟」)。特技は都市計画、外交交渉。奉行として堺や京、博多の町づくりに携わり、取次として上杉や佐竹など多くの諸大名と交渉しパイプ役となった。五奉行において算用を担当していたのは同じ近江出身の長束正家。
特記
世のイメージは、秀吉の権威を傘に着た小賢しい腰巾着。好意的に見られても、官僚としては優秀だが武将としては器の小さい人物。歴史は勝者によって作られるものであるから、敗者は勝者の手によっていかようにも矮小化されうる。武将としての資質は、関ヶ原でもっとも奮戦したのが石田隊、この事実一つで担保されるのではないか。ただし、生まれつき腸が弱く、関ヶ原の時も腹を下していた……?
筆者
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