真田の織田への服属が決まった。信繁は人質となった松を送るため、信長の本拠地、安土を訪れた。事件は明くる日の未明に起こった。

-第5回「窮地」冒頭より-

天正10(1582年)6月2日の未明、本能寺の変が起こる。信長の最期はついぞ描かれることなく、言葉を発したのはあの法華寺での一幕が最初で最後となったが、それだけに余計なにか神秘的な印象を残しての退場となった。逆に信忠の最期は珍しく現実的な描写をともなって描かれた。そして今回のメインはなんといっても家康の伊賀越えである。

信長と信忠の最期

次回の予告では秀吉(小日向文世)の姿を少し見ることができた。5月29日、信長(吉田剛太郎)はその秀吉に乞われて中国地方へ向かうために近江・安土城を発ち上洛する。その数、小姓衆ばかり100人前後、京での滞在予定日数は5日間だったという。

その一方で、明智光秀(岩下尚史)は5月26日、毛利攻めで苦戦していた秀吉の援軍を命じられ近江・坂本城より丹波・亀山城へ移動。6月1日、1万3000人の手勢を率いて約20km離れた京・本能寺へ向かう。その兵力差は100倍。結果は目に見えていた。

翌2日早朝、信長自害。享年49。同日正午頃、明智軍は死を覚悟した信忠(玉置玲央)ら1000人ほどが立て籠もる二条城に攻めかかり信忠を自害に追い込む。享年26。もしこの織田家の若き当主がうまく逃げ延びてさえいれば、秀吉や家康(内野聖陽)の天下は永遠にやってこなかったかもしれない。

窮地を予感する昌幸

信長と信忠の遺体は見つからなかった。そのことによって信長生存との情報も流れ、各地の勢力は右往左往させられることになる。信濃にいた昌幸(草刈正雄)もその一人だが、その確証を得て上杉につくと決断できたのは、ドラマ内の時期よりおそらくずっと先のことであっただろう。

信長と信忠が死んだとなれば、上杉と北条はその領地を狙ってくるだろうし、武田遺臣が潜む甲斐や徳川もどう動くかわからない。四方八方を大国に囲まれた滝川一益(段田安則)の上野と昌幸の信濃は、まさに文字通りの意味での窮地となりうる場所であった。

ともあれ、光秀に味方する勢力はほとんど現れず、光秀は自らの手で早急に畿内を平定する必要に迫られ各地に手勢を繰り広げることになる。そんな中、堺より京への途上で本能寺の変を知った家康は、伊賀を越えてその本拠地である三河・岡崎城へ戻る決断を下す。

神君伊賀越え

その時の供廻りはわずか34名。その中には、徳川四天王と呼ばれる酒井忠次、本多忠勝(藤岡弘、)、榊原康政、井伊直政のほか、石川数正(伊藤正之)、石川康通、大久保忠隣、大久保忠佐といった徳川家を支える重臣が見事に揃っていた。

徳川家が壊滅しかねないお家最大の危機であると同時に、これだけの武将が揃っていたからこそ切り抜けることができたお家最大の転機ともいえる。おそらくこれ以降、徳川家の団結力は一層高まったことだろう。織田家が空中分解してしまったのとは対照的に……。

家康は信忠と同じように一度は死を覚悟するが、忠勝らの説得と服部半蔵(浜谷健司)ら伊賀・甲賀者の誘導もあってこの窮地を脱した。他方、穴山梅雪(榎木孝明)は、家康の後方を進んでいたところを落ち武者狩りに遭ったとも、ドラマ内のように家康と別行動を取ったところを落ち武者狩りに遭ったともいわれる。享年43。

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