織田信長に呼び出された昌幸は、信繁と諏訪に向かった。真田が織田への徹底抗戦を唱えたことはすでに知られている。果たして信長は許すのか。

-第4回「挑戦」冒頭-

天正10年(1582年)3月20日、諏訪の法華寺。今回はここを舞台にして、昌幸・信繁父子と信長、家康との初めての対面がなされる。特に昌幸と家康の化かし合いは面白く、今回の最大の見どころになったといってよいだろう。そして最後は急転直下の本能寺で視聴者をまたあっと言わせる。

信繁が信長と会わなければならなかった理由

前日の3月19日、織田信長(吉田剛太郎)は法華寺に入る。一方、ドラマ内では3月中旬に真田の郷にいた真田昌幸(草刈正雄)は、3月15日に信濃の高遠ですでに織田信忠(玉置玲央)と対面を果たしていたとされており、実際に法華寺で信長と会っていた可能性は低いようだ。

でも可能性がまったくないというわけではないし、物語上も信繁(堺雅人)が「時代の傍観者」として、一度は三英傑の一人である織田信長を見ておいたことにする必要があったのかもしれない。そこで想像力を膨らませて、今回の信繁を連れ立っての信長、家康(内野聖陽)との対面となったのだろう。

家康への挑戦

まずは家康との対面。武藤喜兵衛という人物は知らないかと問う家康に対して、知らないと答える昌幸。その前の本多正信(近藤正臣)との会話から、家康はもちろん昌幸が武藤喜兵衛であることを知っている。昌幸もおそらく家康がとぼけていることくらい承知しているはずである。それでもなおしらを切る昌幸。

場所を移して信忠との対面の間。この密書は自分を高く売るために偽造したものではないかと問う家康。ここでもしらを切り続ける昌幸。家康は自分の読み違えだったと言ってやり過ごし、「さすがは勇名を馳せられた武藤喜兵衛殿、肝が据わっておられる」と呟いてにんまりする。

この一連の化かし合い。家康にとっては、昌幸の人物を試し、なおかつ恩を売ることができた。昌幸にとっては、自分が国衆をまとめ上げる器であることを認めさせ、なおかつ家を残すことができた。この時点で、いつの日か互いに必要とする日がくることを予感していたということなのだろうか。

信長への挑戦

信長への挑戦は「良き面構えじゃ」の一言によって合格が告げられる。なにか任侠映画のようでもあるが、忠実なる同盟者である家康の詰問をパスした次点で合格は決まっていたのだろう。こうやって真田家は織田家への帰属が認められることになったが、沼田城と岩櫃城は滝川一益(段田安則)に明け渡すことになる。

とはいえ、一益は関東守護の任にあり、その与力につくことになったのであるから、これからの動向と働き次第では、北陸方面軍における前田利家や中国方面軍における黒田官兵衛と同じ役割を担っていたことだろう。そんな矢先での急転直下の本能寺の変であった。この時、信長49歳、家康41歳、昌幸36歳。

光秀覚醒

昌幸・信繁親子が信長と対面した当日、明智光秀(岩下尚史)は、信長に「もう一度申してみよ」と叫んでは蹴飛ばされ、「お主が何をした」と欄干に頭を何度も打ち据えられる。この時、光秀は謎の恍惚とした表情で信長を見つめ、あの信長をしてもドン引きさせてしまう。そして本能寺の変である。

この折檻はルイス・フロイスの『日本史』にも記述があり、他の歴史ドラマでも取り上げられる有名なシーンなので、直前の会話が端折られてしまっているが、信長は光秀の「我らも懸命に働いた甲斐がございました」(大河ドラマ『秀吉』)といった言葉に対して癇癪を起こしたとされる。

本能寺の変の動機については、怨念説や黒幕説など現在に至るまで数多出ており、いまだに真相は闇の中。ということで、脚本家の嗜好がもろにでたかのような光秀の謎の表情での含みであった。本能寺の変は一瞬にして終わってしまったが、この含みは光秀が信長の下へ召されるまでに明るみにされるのだろうか。

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