天正10年(1582年)2月。甲斐の名門、武田家は最大の危機を迎えている。信玄の死から9年。ついに織田信長の侵攻を許した。その先鋒に迫る山中を、武田に仕える1人の若者が進んでいた。

-第1回「船出」冒頭より-

初回から武田家のクライマックス。子役を使えば長篠の戦いあたりから始めることもできるが、天正壬午の乱、関ヶ原の戦い、大坂の陣……と、これからも山場は盛り沢山。NHK新大型時代劇『真田太平記』でもその始まりは武田家滅亡の直前から。ということで、まずは武田家が滅亡するに至ったその背景を簡単に見ておきたい。

長篠の戦い~甲州征伐

信玄亡き後、長篠の戦いなどを経て急激に弱体化した武田家。天正3年(1575年)5月の長篠の戦い(武田vs織田・徳川)では、武田四天王と呼ばれる譜代宿老のうち3人(山県昌景・馬場信春・内藤昌秀)が討ち死にしたほか、多くの武将と1万を超える兵が戦場の露と消え、ここで武田家の滅亡は大きく早まる。

その後も、織田、徳川、北条が西、南、東から次々に攻撃。そして天正9年(1581年)3月、徳川軍に囲まれていた遠江の要である高天神城を見殺しにしたことで家臣の心は大きく離反。さらに新府城築城による賦役増大などもあって、天正10年(1582年)2月、勝頼(平岳大)の義理の弟である木曽義昌(石井愃一)が織田に寝返り織田軍の侵攻を許すことになる。

これを端緒に次々と寝返る者が現れ、織田、徳川、北条の大軍が一斉に武田領内へ侵入(甲州征伐)。そして、以前より織田・徳川と内通していた御一門衆筆頭の穴山梅雪(榎木孝明)が徳川へ下ったことで、勝頼はいよいよ新府城撤退をも余儀なくされる。そこで出てきたのが真田昌幸(草刈正雄)の岩櫃城への退避案。しかしこれは却下されることに……。

武田家における昌幸の立ち位置

先の長篠の戦いでは、真田家当主で昌幸の長兄であった信綱と次兄の昌輝も討ち死にしている。この真田兄弟は勝頼を逃がすために玉砕覚悟で殿を務めたとされる。信綱享年39、昌輝享年33。そして三男であった昌幸が真田家を継ぐことになったのである。この時、昌幸28歳。

その昌幸は幼少の頃に兄に代わって武田の人質に入り、奥近衆として信玄の寵愛を受けたといわれている。初陣を果たしてからは信玄の手足となって働き、信玄をして「我が両目」と称されたほどであった。そしていずれは武田の柱となることを期待され、信玄の命によって武田一族の武藤家の養子に入り「武藤喜兵衛」を名乗る。

勝頼が家督を継いでからも側近として重用され、「信州先方衆」の一人だった兄の信綱とは別格の扱いを受けていたようだ。真田家の当主となってからは譜代格を与えられていたというが、勝頼の側近で譜代家老衆の長坂光堅によって昌幸の案は退けられ、同じく譜代家老衆であった小山田信茂(温水洋一)の岩殿城に退避することが決まったとされる。

武田家からの船出

しかし、勝頼が昌幸に恩義を感じていたのは事実なようで、ドラマでもあったように、新府城にいた真田家の人質はすべて開放されることになる。開放や船出というとなにか前途洋々な感じもするが、武田家という大きな軍艦に庇護されていた一艘の小船が、荒波が寄せる戦国という大海に単独で放り出されてしまったのである。

北には先代・謙信以来の家風を守ろうと毅然とした表情を取る上杉景勝(遠藤憲一)、東には逸話にある2度汁かけを実行して先代・氏康の重圧に苦しむ顔芸を見せる北条氏政(高嶋政伸)、南にはイライラして爪を噛む癖を披露する徳川家康(内野聖陽)、西には手中に収めた史上空前の領土を安土城から見下ろす織田信長(吉田剛太郎)……あの短いシーンでそれぞれの特徴をよく表していた。

他にも、OP曲でヴァイオリンのソロが活躍したり、草刈正雄と榎木孝明がツーショットで食えない男を演じていたり、源次郎(堺雅人)が寝転んで足をバタバタさせたりと、随所で『真田太平記』のオマージュと思わせる仕掛けなどもあり、極めつけはテンポの良い会話と決してギャグには陥らない質の良いコントで、実にあっという間の60分であった。

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